昨年、本誌『六大新報』を通じて真言宗の安心についての私見を述べ、
諸徳の御批判を乞うたことであります。
真言宗の安心は、鎌倉時代から江戸時代を経て、明治大正昭和初年頃までに先徳方が出された卓論が残っております。
浄土門の安心論に対して生まれたのが本宗の密宗安心抄でありますから、後生安心になっております。
要するに、死後を目標にして、生存中信仰によって安心を決定できるとしたものであります。
しかし、真言の聖道門としての立場は、生仏不二の成仏論から、永生の安心を得ることは、
いと易いものとするもので、その上に立つ論の展開を特徴とするようです。
ところで近時、病院の充実ぶりには目を瞠るものがあります。
政府の過度の医療費の支給増加により、病院への入院患者が多くなりました。
但し、不治の病の患者が多いので、治って帰宅することがなく、死を待つのみの患者が多いわけです。
唯物論に立つ現代医学が、生きた人間を一個の物体として見ながらも、生存中の患者の苦悩に対しては、
何ら打つ手のないことを知れば知る程、
患者に精神の安らぎを与えるには宗教が必要であると考えるようになったことは大変な進歩だと言えましょう。
キリスト教には早くからホスピス運動が行われていますが、それはキリスト教が奇蹟を信じ求めるからで、
尊い流れであります。そういう伝統のない我が国で、
唯物科学に立つ病院内に仏教界に期待する声が出るようになったのは尊いことだと言わねばなりません。
昭和六十一年、築地本願寺でホスピスについてのシンポジウムが行われましたが、
その時の思いを述べることは、本題に役立つのではないかと思い、筆を執った次第であります。
浄土真宗の主催するものに真言僧が参加するのはどうしたものかと思った通り、
司会者は、本題に入る前に釘をさして、病人に対して病気が治るというような話はしてはならないと言うのです。
死後の演出方法を取るのが浄土真宗ですから、現世利益的教化方法を否認する訳です。
参会者は看護婦および付添婦が多く、他に医師数名、真言宗僧侶として私の他に医師を兼ねた方が居られました。
自己紹介の番に立った私は、次のことを述べました。
「先に司会者から注意がありましたが、一言私が出席した理由を述べます。
私は浄土真宗開祖の親鸞聖人の絶対他力の救いに感謝しています。
特に現世利益和讃は聖道門の達人でも書けない立派なものと尊敬している者です。
この現世利益和讃によって無痛死を以て天寿を全うできるよう期待しています。」
あらましこのようなことを述べたわけです。唯物論の風潮に育つ現代人は現代医学に期待するのですが、
未だに不治の病が多く、逆に増える一方であります。特に癌における化学療法は完全に無力であり、
有害でさえあります。唯一の期待は、初期患者の手術療法のみで、物理療法も役立つどころか、
苦痛が増すのが実相であります。
この化学万能の時代に、精神界の指導者たる宗教、特に仏教界で自信をもって、
その教理に基づいて病人を救う宗派はないようです。唯独り正純密教のみが、
法身大日如来の本願たる成仏神変加持により、癌その他の難病を癒すことは勿論、
手遅れの末期癌に無痛死を約束します（絶命後も体温を高く保ち温和で柔らかな面相を示す人が多いのであります）
これこそ布教すべき根本課題ではありませんか（但し化学療法を受けた者、手術後に再発した者は、
残念ながら安楽死を期待することはできません）。
大道具小道具の仏器を用いず、患者は印契も用いず、ひたすら真言、
念仏を唱えることによって安楽成仏するのです。覚鑁上人の仰せの如く、
患者が自力の信心によってではなく、
正に如来の絶対他力にお任せした時に、仏相ともいうべき円満な人相が現れるのは、厳然たる事実であります。
ここに重大問題があるのは、このような現象が、医師界の怖れを呼び、密教敬遠となって、
入院患者へのホスピス活動が、スムーズに行かないのでないかということです。
現代の文化人は宗教の力で難病が治ることを否定するのを常識としています。
マスコミが絶対に取り上げないのは、社会構造そのものが、
宗教の偉大さを世に出さない仕組みになっているからです。
これは、政治力の行使するほどの熱意がなければ、せっかくの真言密教という人類救済の大法が、
死者のお別れの儀式に終わることを意味します。今のような科学万能時代に於ける道は、
この真言宗の安心を措いて他にないということを、強く主張したいところであります。
私が常に不審に思うのは、物心不二、生仏不二、一即多、多即一、
色即是空を説く仏教者が「生命とは何か」という論題に於いて、
科学的生命論と哲学宗教的生命論と区別していることであります。
これは大日如来の何たるかを知らないために顕教の学者の如く、真理を説いても、
その真理の活用が密教の救いであることが分からないからではないでしょうか。
密教の事相が、人の悩みの救いと関係なき呪術的な儀式作法になったのは、
それを必要とした未開時代までのことでありましょう。
本来の密教は、外道を引付ける仮方便に理論付けしたもので、
無相の三密こそ正純密教の事相の筈ではなかったのではありませんか。
真言念誦こそ正純密教の僧俗共に帰着すべき一点でありましょう。
それは、成仏という目的が速疾に成就するからに外なりません。
真言念誦は人間の心身のみでなく、農作物をはじめ植物にも及ぶことで、一層その真価が知られる訳であります。
いつまでも霊障因縁説のお祓い密教でいては、新興擬似仏教と同類であり、
その先輩に過ぎないと思われてしまいます。実に大師に申し訳ない次第ではありませんか。
（この文は『六大新報』平成二年一月号へ投稿したものです。）